EIKO ROUNGE
エイコラウンジ
エーコ選手名鑑⑨「糸井 統」
背泳ぎの「一時代」を築いてた「ハジメ」こと糸井先生。 水しぶきの立たないス~とした泳ぎが印象的だった。
そんなハジメと初めて一緒に練習となったのは(私の記憶が正しければ・・)94年の富山のシニア合宿??かな??
背泳ぎの選手なのに、なぜか「バタフライクラス」で練習をしていた。なんで?と思いながら泳がせてたような記憶。
確か・・100バタは結構速かったような・・。その時の練習の記憶は余りない。
が・・・
翌年のアトランタパンパシで代表チームは「200m種目」中心のエーコとこのチームにハジメが居て・・
背泳ぎのハジメや、イトマンの堀チン、中尾みき、美佳なんかが一緒のチームとなった。
アトランタのショッピングモールでの オリンピックショップ前での1枚。
来年も必ず❢❢ここに来ような~~~とか思ってたよな。
確か・・このパンパシの年は200m背泳ぎには出場せずに100mバタフライを泳いでたような気がする。
当時から、バルセロナオリンピックにも出場してたし、年齢も他の選手よりは上だったので「ベテラン」と言う言葉が
常に付いて回っていた。日頃の会話や、生活の感じからすると、ヘラヘラ泳ぎそうな感じなんやけど?違うんだな❢❢
こと、練習になると、ここぞ❢❢という練習には動けなくなるまで「行ってしまう」
そんな練習が何年も継続出来てたから・・日本選手権では何連覇も出来たんやと思う。パチパチ👍
で・・その翌年、アトランタオリンピックでも「エーコのチーム」にハジメが来た。
覚えてることが一つある。
オリンピックチームの最初の合宿、集合の習志野のホテルで個人ミーティングをした。その際ハジメに聞いた。
「頑張れるだけ頑張るオリンピックとするか❓死ぬ気でメダル狙うか❓どう考えてるんや❓」と。
「やりますよ。エーコ先生について、やれるだけ頑張ります。」とはっきりと言ってた。
そのチームも200m種目中心、フリーの俊介、井本、背泳ぎのハジメ、個人メドレーの吉見、そして美佳の5人。
経験、年齢、種目・・全てが違う5人が集まり「ワンチーム」で合宿から本番まで約1か月半の遠征。
1996年の選考会、日本の選手は100バタの綾里、200バタの鹿島、すずなどが世界ランキング上位のタイムで
泳いだことから「過去最強チーム」と前評判が高かった。確かにマスコミの数もメチャクチャ多く、どこに行っても
マスコミは選手を追っかけていた。そんな選手は1人で1コースを泳ぐ。うちのチームは5人で1コースを泳ぐ。
最初は・・何??これ??なんて正直、思ってた。多分、一番感じられたのは泳いでた選手自身やったと思う。
そんな中でも、ハジメは黙々と練習し、翌日死んで・・kekeke・・を繰り返しながらチームの中心で泳いでいた。
暑い夏の日でも、車で帰らず、一人ジョギングをするようなこともあったな・・😊
アトランタオリンピック期間中・・・初日から「決勝に残れない」選手が続いた。エーコのチームはどちらか言うと
後半戦なので、選手のモチベーションというか、レースまでの気持ちを持たすのが正直、大変やった(と記憶してる)
けど、合宿期間中からオリンピック本番。ハジメは淡々と、自分のレースのことを考え、メニューをこなして行ってた
ように思う。周りに惑わされるとか?気にするとか??よりも「マイペース」を貫ける選手やった。
ある日・・エーコらが計画してたスケジュールから急に変更をかけなあかんようになったことがあった。
レースの期間中、緊急でミーティングをするという。前半戦の成績が芳しくないから?引き締めだったのだろう。
そんな時でも一言だった「関係ない」
絶対に決勝には残る❢勝負できる❢❢と、エーコもハジメも思ってた。
決勝レースではバルセロナ同様、積極的なレースをしたけど、ラスト25メートルで惜しくも5位になった。
エーコも・・初めてのオリンピックチームのコーチで、ほんとに大変な試合やった。
コーチが選手を頼る?なんて可笑しいかもしれんけど・・ハジメはホントに頼りになる選手やった。
けどさ、エーコがもっともっと経験を積んでたら、また違った結果やったかもしれんしな( ^ω^)・・・
スッ~とした大きなストロークで水しぶきも立たない「背泳ぎの見本」のような泳ぎ、今でも忘れない。
もう・・・26年も前か・・・(@_@;)ビックリや❢❢❢