EIKO ROUNGE
エイコラウンジ
エーコ選手名鑑⑦「三宅愛子」その④
1995年1月 阪神大震災があった。ちょうど、愛子が高校1年生の冬で2年生になろうとした時だった。
あそこまでの自然災害は初めての経験。ホンマに「人生観」というものが変わったような気がした。
自分の力ではどうしようもないことが、な~~んにも出来ない、何の役にも立てない・・そんなこと。
「人生てどこで、どうなるか解らんもんなんや!」とも思ったりした。
で、エーコの前には1996年アトランタオリンピックの選考会まであと1年ちょっと・・・・
人間は、何かをやろうとする時、挑戦しようとする時に、一番大切なものは「決断と勇気」やと思うねん。
あの地震では、その「決断と勇気」を持ち続ける気持ちが強化された。
1995年9月、1996年4月の「選考会」まで残り7か月チョット。
その約半年間の強化方針や、スケジュールを考える時、たくさんのベテランコーチの意見を聞いた。
「先生はどうするの??」「合宿は何処で、何回するの?」とか・・ね。
聞いても、その通りすれば「日本1」になれるものでもないのは解ってる。けど、経験のないエーコには、、、
とにかくいろんな知識、いろんな経験を持った人から「聞くこと」をしながら、自分で半年間の予定を立てた。
当時の愛子はランキング7~8番ぐらい、タイムで8分50秒。愛子の前には8分40秒~41秒が3名もいた。
選考会では「8分39秒切の日本記録」と「4分13秒」「2分01秒」その3本を目標とした。
トレーニングは9月に個別ミーテイングから始めるんやけど、約3週間ぐらい、愛子には毎日、毎日、話しては
泳がせずに帰らせてた。美佳はミーテング翌日から泳いでいたんやけど・・・ね。
なんか・・愛子の「覚悟」が薄く感じられて・・ね。じゃ、練習しよう、始めよう、頑張ろうぜ❢❢❢ と、
エーコがなかなか思えなかった。そんな中途半端な気持ちなら、最初から「オリンピック」いきたいなんて言うな❢
甘いんじゃ❢❢ と、どんだけ話しても感じられた。で・・泳がさず、来ては帰らせて、来ては帰らせて・・の時に
保護者が愛子と一緒に話に来た。
「愛子はホントにコーチに付いて頑張る気持ちでいます。親も協力しますから泳がせて下さい」と。
その時、保護者にも「とことん、やらそうという親としての「覚悟」ありますか?コーチについていくだけで
オリンピックなんて行けない」と・・・か・・・保護者にも厳しく話をしたと思う。
けどさ、これって、愛子に、保護者に問いかけて話をしてるんやけど・・・
実はエーコ自身に「問いかけてる」もんなんや・・・・
1人の女の子を「オリンピックに行こう❢❢」と出来るかどうかも解らんようなことを必死で、「死に物狂い」で
やらせること。頑張るのは選手やけど『やらせる責任』というものを感じていたし、愛子の飄々と
した性格や、おっとりとしたところ。そんな子が選考会で「日本1」になれるか?と、エーコ自身の「葛藤」もあった。
そんな中・・「発奮材料」になったことが二つあった。
あるコーチが、その年、ジュニア遠征に行った愛子のことを「愛子はオリンピックはないな」と言った。
もう一人・・・今は亡き奥田会長が言った。
「え~か、2人をオリンピックに行かせたいんやったら、絶対に諦めたらあかん。最後の最後でやっぱり・・
春名だけでも行けたらええわ、一人でも行けたらええか・・なんて、気持ちが必ず出て来る。
ホンマに2人を行かせたいんやったら、日本1の世界1の練習をやらせて、自信を付けさせて、三宅を選考会で
泳がせたらなあかん❢❢❢」と。その言葉で・・エーコの「腹が決まった❢❢」
週に12回の水中練習。毎日6時~7時45分の早朝練習、午後は6時半~9時。
毎日練習が終わったらスイムベンチを30分引いて帰る。
練習は決めたことが出来るまでやらそうとする。やり直しは毎日のこと。もちろん終わりは遅くなる。
愛子はたとえ練習の終わりが10時半や、11時近くになってもミニジムを引いて、翌日の朝練習には来てた。
もちろん、公立高校なので学校の前に朝練習はある。日曜日だけの休みで、週末などはフラフラやった。
エーコも木曜日辺りにはフラフラやん。朝練後も家に帰ることなく、ずっと会社にいたし・・ね。
愛子が倒れるのが先か❓❓エーコがヘタるのが先か❓❓位の状態で練習をしていた。
どれだけ練習したらええか解らん。どのぐらい泳がせたらええか解らん。とにかく・・・後悔はしたくない。
ただ、ただ、その気持ちだけで練習をして、泳がせて、泳がせて・・合宿に連れて行ってた。
学校にも行かなあかんから、休む日数を数えながら、テストは受けなあかんから日程は調整しながら
半年の強化スケジュールをこなしていった。
ある日、愛子が熱を出したことがあった。けど、学校を休むと「出席日数」が足らんようになる?かもで
それでも学校には行け・・と。で・・先生がフラフラな様子を見て「帰っていい」と言われて早退する。
それで・・・家で寝てから・・練習には来る。そう・・・鬼のような感じや・・・(@_@;)
愛子たちは「合宿」になると時間がゆっくりあるから、元気になりどんどん調子を上げていってた(ように思う・・)
で・・この合宿が「勝負だ❢❢」と思ってた、2月のサイパン合宿。屋外の強い日差しとものすごい風!!
このプールでも出来るまでやらせると、ヘロヘロの愛子は、バタフライの美佳よりも遅かったこともあったほど。
強風が吹くと・・・愛子は全く進まんやん・・・(´;ω;`)っ なんてこともあった。>>>笑えません(´;ω;`)っ
この時期、サイパンにはナスの利彰や、仲良しだったこの先生も合宿に来ていた。
先生のキャラ?で、愛子を随分と励ましてくれてたし、必死のパッチのエーコも随分と和むことが出来たように思う。
92年のオリンピックは「エッ、オリンピック決まったん??」やった。けど、狙って、狙って行くオリンピックは
エーコには経験がない。愛子の性格なら・・選考会で泳ぐのはどんな感じになるんやろう?とか、何を言えばええかな?
とか。2月なら・・もう「選考会」のことを考えない日はなかった。
この時には・・・井村先生の言葉がエーコに一番の「勇気」を持たせてくれてた。
「あのね、自分の思うとおりの強化が出来てなくても、思ってたところまで選手が泳げなくても、選考会の日は来る。
だから、強化はこの日まで❢と決めたら、決してずらさないこと。
その先は、いかに「ええコンディションで泳がすか」を考えてレースに出すこと。
そこをもう少し、もうチョット・・としてたら、必ず失敗する」と。
まぁ・・・今から思うと・・・エーコは他力本願の所も多いよ・・なkekeke
3月の調整合宿を経て、最後の合宿地から東京に向かう前日の夜にミーティングで愛子に聞いた。
「今は、どんな気持ちや??」と。
愛子は「早く泳ぎたい。絶対に勝てる!!」と、言い切ってん。
その言葉を聞いた時、「行った❢❢❢❢❢❢❢❢❢」と思った。泣きそうだった?かも。
400mの決勝は山野井とすずの間で泳いだ。それも、シュミレーションはしてた。
『400の決勝は、右に千葉さん、左に山野井さんで泳ぐからな❢』と、ずっとずっと前から愛子には話してた。
決勝のコース順を見て、ピープルのコーチが「あ~、あ~」と言うてたのも覚えてる。
けど・・・愛子は、ビビりも焦りもなく目標の4分13秒の3位だった。
800mでは、日本記録には少し届かずやったけど・・8分39秒でオリンピックを決めることが出来た
何時かは「オリンピック選手を育成したい」と思うコーチは多い。若いコーチには「野心と勢い」がある
コーチが必死に頑張っても・・所詮、泳ぐのは選手。
ならば・・選手を変えていくのが「コーチの役目」かな?!
この半年間は、毎日、毎日寝る時も「これでええかな?」とか「他にやることはないかな?」とか・・
若かりしエーコも葛藤の日々はたくさんあった。
けど、職業としてコーチをやってる間で「オリンピックを狙う」なんてそう何回もあるものではないかも
しれないやん。な・ら・ば・「決断と勇気」で挑戦する時間を持つことはコーチとして最高の時間やと思う。
エーコは・・オリンピックが決まってもフツー。けど・・・・今までにないぐらい「号泣」😢したのがこれ・・・
努力できる「素質」諦めない「根性」>>>>今の時代にはマッチしないかもしれんけど、やはり必要や。
ホントに素晴らしい経験をさせてもらったと思っている。 凄いよ❢❢愛子は・・・・