エーコ選手名鑑⑪「三田真希」その①

97サンタクララ遠征
もう・・25年も前の写真になる。(そら・・ボケボケになるんも当然やな❢❢)
エーコが2回のオリンピックの後、当時の会社(ピープル)の副社長と話をして1年間アメリカに行った。
その時に日本からの「サンタクララ遠征チーム」に当時、ピープル西葛西所属の「三田真希」がいた。
のにさ・・・・・
サンタクララで会うまでは全く知らん!選手やった。
小学生時代から「日本学童新記録」を樹立してた速い選手だ(らしい・・)
西葛西の西村コーチが一生懸命指導してた(らしい・・)と言うぐらい。
で、その西村から「サンタクララに三田が行くのでよろしく❢❢」とメールか電話がアメリカにあった。

サンタクララのジュニアチームが来るのであれば「お手伝い」ぐらいはせなあかんやろ。
それでなくてもさ・・皆は「エーコはアメリカに遊びに行ってると思ってる」から。
初日、日本チームが到着して選手がアップをしてる時、プールを見ながら三科先生と話していた。
「先生、あの女の子良く体浮いてますやん、ええ感じですね」と言った。ら・・・・
「あの子はお宅の三田さん」と言われた(@_@;) 「へ~、ええ感じやな・・」が真希の第1印象。
その試合での結果は覚えていない。何を話したのかも覚えていない。➡これ・・エーコによくある病。
けど、、三田はその時の「田村コーチ」のイメージ、インパクトが相当強かった❢❢(よ・う・だ)

その翌年、エーコが帰国してピープル明石を軸にして、選手チームを新編成した。
その際に「選手寮」を持ち、本格的な「オリンピック選手を育てるためのチーム」をスタートした。
その頃、真希は「ピープル西葛西」に所属して実家の埼玉から、西葛西(東京の端)まで行き、
学校は姉と同じ、日大豊山女子中学に進学していた。
その年(1998年)の日本選手権。真希は全くダメでイマイチの成績だった(どれぐらいか覚えていない・・)

その大会の最終日に「事件」が起こった❢❢ イヤ、起こしたのだ❢❢❢
控室で泣いてた?かな?真希に、エーコから話した。
「オリンピックに行きたかったら明石に来い」と。
それが・・その先・・
どんだけの人に迷惑をかけて、どんだけ大変なことやったのかは、エーコは全くもって考えてない。
真希自身も、何も解らずただ「田村コーチの所へ行く」とだけの気持ちやったと思う。
で、その全ての責任を真希の両親に委ねた。親が日大豊山女子中学に行って頭を下げ・・・
真希の姉ちゃんも同じ学校だった故にとても大変やった(らしい・・)

エーコは「真希が選んで来るのなら、必ずシドニーに出す❢❢」とだけ、決めた。

同じ会社で選手が行き来するのは、、、まぁ、余りええ感じではない(よな・・)
だけど、選ぶ選手と、選ばれるコーチが目指すものが同じで一つなら「必ず成功する」
と・・・エーコは思う。
周りがそれに対して、協力的であるか、非協力的であるか??も大切なことやけど・・・・
それ以上に・・
当時のエーコの考え、勢いであれば・・「エーコの所へ行ったからここまで強くなった❢❢」と
思わせてやる。それが、コーチとして「当然のこと」・・ぐらいに思っていた。

中学を辞める、大阪へ行くことに関しては両親も大変な「勇気と決断」が必要だったと思う。
真希は明石の「錦城中学」へ編入して、明石での生活、水泳付の生活がスタートした。

その年は「バンコクアジア大会」が冬のシーズンにあった。サチコが代表入りしてテレビに出てるの見て
真希は一言。「もっと早く来てたら、私はこれに出れたかな・・」と言ったらしい。
その時に、一緒にテレビを見てたコーチがエーコに言ってた。
「あの悔しそうな真希の顔を見て、本当に気の強い子なんやな~。こんな子がオリンピックに行くんかな?」
なんて、思ったらしい。

真希は、ずば抜けた運動神経をしていた。の反面、故障をしやすい選手やった。まだ高校生ぐらいなので
そんなに故障とかはない。ただ、練習の勢いというか「はまった時の集中力、爆発力」は物凄かった。
女の選手はなかなか「自分の限界を突破」するところまで頑張り切れない。要するにぶっ倒れるようなことはない。
けど、真希は違った。そこの辺は・・・メチャクチャ「男まえ」やった。
こちらがしっかり見ててセーブしてやらないと・・行ってしまう・・ぐらいやった。
そんな真希を試合で勝たせるのはさほど難しいことではなかった(ように・・思う)

1999年シドニーオリンピックの前年のパンパシには何としても出しておかないと翌年のオリンピックはない。
そこから、、オリンピックに向けての2年計画がスタートした。
外国慣れをすること、外人を見てもビビらないようにすること、一人で行動が出来るようにすること。
その3つをこなしていくためには海外での合宿を選んだ。
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アメリカ(サンタクララ)に行った際の休日(ロサンゼルス🎵)

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アメリカ(マイアミ)に行った際の休日(ディズニーワールド)

NZL2000
2月のサイパンに行った際の休日(現地の人しか知らないビーチで)

シドニー前年の日本選手権はまだ自由形をやらせながら、バタフライを泳がそうと決めた。
なぜなら、真希はバタフライの練習が出来ません😢 それまで、エーコは美佳のバタフライをやらせてたから・・ね。
美佳のやってたような練習は真希は出来ない。そこまで真希はバタフライを泳げなかってん。
だから、今までのエーコのやって来たバタフライの指導とはチョット違ったような(考えて、考えて・・・)
ものやったかもしれん。

その1年のスケジュールをベースに翌年はシドニーオリンピックの選考会を目指しての1年がスタートした。
まだ、高校1年生やったから当然、学校も行く、合宿になるとレポートや課題を持って行っていた。
2000年シドニーオリンピックの選考会では「バタフライ1本」で行けるように準備をして鍛えていた。
選考会前には・・多分、真希もエーコも「負ける気なんかしなかった」ような気がする。

シドニー選考会ではサチコと真希が選ばれ、エーコは代表コーチから外れた結果となった。
日本選手権で勝ってもあかんねんな。コーチは・・選ばれな。・・・と、落胆したような感もあった。
真希やサチコには言ってなかったけど・・・・ホンマ「辞めたら❢❢」ぐらいの気持ちやったナ。
けど・・その時にエーコを奮い立たせた言葉が・・その当時の社長から・・
「お前がどんだけ我儘なコーチであっても、付きん出たら選ばんわけにはいかんやろ。そこまでやれ❢」と。
今、考えても、吹っ切る気持ちと、何とも言えないような気持ちのオリンピックやったナ・・。

壮行会2000
オリンピック選考会での真希(高2)・・・若っ❢❢

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オリンピックチームで参加した「ミッションビエホ」の大会で。

2000シドニー
シドニーオリンピックパークで・・・・
真希は100mバタフライは予選落ちをしたけど、200mバタフライで何とか決勝レースに進んだ。

中学3年の途中から大阪に来て、オリンピックに行くまでの約2年半、、今から思うとやはり・・
「根性のあるやつ」やった。立ち向かう表情や、その姿勢などは、ホント❢❢スポーツを
する為に生まれてきたような奴やと思ってた。その上に自分にも厳しいから決めたらやる。とことんやる。

今までのエーコの見て来た選手では・・やはり男は伊知郎、女は真希やろな❢❢❢
そんな真希がオリンピックを経て、高校を卒業して大学へ・・・ 続きはまた今度(*^-^*)