EIKO ROUNGE
エイコラウンジ
高知のキンタから・・・
小学4年、152センチ。
「水泳は健康にいい。」という理由で入会した私は、初回認定で15級のワッペンをもらいました。
旭町にピープル高知がオープンした、2年目の春のことです。
幼稚園児や小学低学年の生徒に混じり、ヘルパー付背泳ぎを習いました。当然のことながら、私と家族の最大の目的は
「肥満予防。」のちに“競泳選手”を目指すことになるわけですが、当時の私は闘争心が薄く、初出場の大会では、
脱げたスイミングキャップを取りに戻り、最下位でフィニッシュしてもへらへらしている、実にふざけた選手でした。
小学6年。50m自由形で全国ジュニア夏季大会に出場が決まり、そこで田村コーチ率いる加古川軍団に出会います。
勝ちにいく準備を淡々とこなし、全員がそれぞれの覚悟を持って試合に臨んでいる、そんなチームでした。
多くの刺激をうけ、私の意識も少しずつ変わっていったように思います。
その当時、田村コーチと会話した記憶はありません。たぶん、怖すぎて、逃げ回っていたのだと思います。
私は高校3年までピープル高知でお世話になり、兵庫県の大学に進学して22歳で競技水泳を終えました。
卒業して3年後。
今度は、「上司と部下」として再会することになります。
大きな組織の中で、田村コーチは雲の上の存在です。年に数回研修会でお会いする程度でした。
私は、指導者として何度も壁にぶち当たり、自分の力のなさを嘆いていましたが、そんな時、
「選手にとって、今、この時間は二度と来ない。立ち止まる暇はない。止まるな、前に進め。」と檄をとばされました。
でも、そのあとは必ず、「明石の合宿所に勉強に来い。」「強化合宿に帯同するか。」と声を掛けていただきました。
私の指導者としての迷いや不安はそこで解消されていきました。
今でも、忘れられない出来事があります。
ひとつは、シドニーオリンピックに出場した田村コーチの教え子の沙知子や真希を現地で応援できたこと。
そして、私が指導していた選手が、日本代表としてオーストラリアジュニア遠征に参加できることが決まった日。
田村コーチから一枚のFAXを頂いたことです。
厳しさの中に、普段隠れているやさしさが溢れていました。今でも大切に保管しています。
最後になりますが、田村コーチの凄さは、長い時を経てだんだんと沁みてくるものです。
短いお付き合いでは、怖さや迫力が先行してしまうかもしれません。「私もはじめは怖かった。」
でも、今は感謝してもしきれません。田村コーチの御活躍を励みに、私も、高知で今の仕事を頑張りたいと思います。
これからもよろしくお願いします。